「山形県 酒田市」の郵便局一覧
山形県 酒田市には、43件の郵便局があります。
郵便窓口
ゆうゆう窓口
郵便窓口
ATM
保険窓口
郵便局名 | 局番 | サービス |
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さかたほんちょうゆうびんきょく 酒田本町郵便局 | 85286 | |
さかたかめがさきゆうびんきょく 酒田亀ヶ崎郵便局 | 85165 | |
さかたひかりがおかゆうびんきょく 酒田光ヶ丘郵便局 | 85269 | |
きたまたかんいゆうびんきょく 北俣簡易郵便局 | 85707 | |
さかたきたしんばしゆうびんきょく 酒田北新橋郵便局 | 85290 | |
あおさわかんいゆうびんきょく 青沢簡易郵便局 | 85735 | |
じゅうりづかかんいゆうびんきょく 十里塚簡易郵便局 | 85799 | |
みなみゆざゆうびんきょく 南遊佐郵便局 | 85132 | |
ますだかんいゆうびんきょく 升田簡易郵便局 | 85709 | |
さかたみなとゆうびんきょく 酒田港郵便局 | 85264 | |
あくみおおさわかんいゆうびんきょく 飽海大沢簡易郵便局 | 85825 | |
うえだゆうびんきょく 上田郵便局 | 85228 | |
むつしんでんかんいゆうびんきょく 六ツ新田簡易郵便局 | 85739 | |
さかたことぶきちょうゆうびんきょく 酒田寿町郵便局 | 85223 | |
さかたさんきょまちゆうびんきょく 酒田山居町郵便局 | 85272 | |
まつやまゆうびんきょく 松山郵便局 | 85014 | |
やわたゆうびんきょく 八幡郵便局 | 85045 | |
さかたえきまえゆうびんきょく 酒田駅前郵便局 | 85196 | |
うぜんひろのゆうびんきょく 羽前広野郵便局 | 85208 | |
さかたゆうびんきょく 酒田郵便局 | 85004 | |
にっこうかんいゆうびんきょく 日向簡易郵便局 | 85816 | |
にいぼりゆうびんきょく 新堀郵便局 | 85110 | |
もとだてゆうびんきょく 本楯郵便局 | 85115 | |
りょううばしどおりかんいゆうびんきょく 両羽橋通簡易郵便局 | 85754 | |
さかたひがしおおまちゆうびんきょく 酒田東大町郵便局 | 85283 | |
さかたひがしいずみちょうゆうびんきょく 酒田東泉町郵便局 | 85142 | |
さかたまつばらゆうびんきょく 酒田松原郵便局 | 85302 | |
はまなかゆうびんきょく 浜中郵便局 | 85212 | |
きたひらたゆうびんきょく 北平田郵便局 | 85129 | |
なかひらたゆうびんきょく 中平田郵便局 | 85174 | |
ひがしひらたゆうびんきょく 東平田郵便局 | 85175 | |
あくみたざわゆうびんきょく 飽海田沢郵便局 | 85188 | |
さかたあいおいちょうゆうびんきょく 酒田相生町郵便局 | 85059 | |
さごしみどりちょうかんいゆうびんきょく 砂越緑町簡易郵便局 | 85812 | |
うすがさわかんいゆうびんきょく 臼ケ沢簡易郵便局 | 85721 | |
せつたかんいゆうびんきょく 芹田簡易郵便局 | 85751 | |
みやのうらゆうびんきょく 宮野浦郵便局 | 85260 | |
かんのんじゆうびんきょく 観音寺郵便局 | 85166 | |
にしあらせゆうびんきょく 西荒瀬郵便局 | 85137 | |
とびしまゆうびんきょく 飛島郵便局 | 85100 | |
ひらたゆうびんきょく 平田郵便局 | 85126 | |
さかたたかさごゆうびんきょく 酒田高砂郵便局 | 85288 | |
そでうらゆうびんきょく 袖浦郵便局 | 85120 |
「酒田市」について
- 酒田市(さかたし)は、山形県の北西に位置する庄内北部の都市。市の人口は約9万5千人で、県内人口第3位の地方自治体。
概要
- 山形県唯一の重要港湾である酒田港と庄内空港があり、日本海と鳥海山の自然に恵まれ、庄内平野で育った良質な庄内米と鳥海山の伏流水で造られる日本酒が特産品。中細ちぢれ麺と魚介系スープが特徴の酒田のラーメンや酒田港で水揚げされる海の幸などを求めに来る観光客も少なくはない。
歴史
- 平安時代に朝廷が出羽国の国府として築いたとされる城輪柵跡があるように、地域の歴史は古い。酒田の街は袖の浦(現在の酒田市宮野浦)に移り住んだ奥州藤原氏の家臣36人が、1521年頃に最上川の対岸に移り、砂浜を開拓し作ったと言われている。袖の浦は中世には貿易の中継地だった。
- 1672年に河村瑞賢が西廻り航路を確立すると、酒田はますます栄えるようになり、その繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」ともいわれ、秋田土崎湊と並び、羽州屈指の港町として発展した。日本永代蔵に登場する廻船問屋の鐙屋(あぶみや)や、戦後の農地改革まで日本一の地主だった本間家などの豪商が活躍し、街は三十六人衆という自治組織により運営されていた。元禄2年6月13日(1689年7月29日)に松尾芭蕉が奥の細道で訪れている。